さとちゃーのプロフィール

こんにちはさとちゃーです。ご覧頂きありがとうございます!

このブログサイトは
『稼げるようになって自信を付けたい!』
『自信をつけて自分で発信していきたい!』
という方を応援したくて立上げました。

私は今キークエスト代表取締役『青木創士』先生のもとでWebマーケティングを学んでいます。

30代後半からWebデザインを学びフリーランスで稼ぎたいという願望がありましたが、うまいこと成果が出ず、ずっとくすぶっていました。

とあるきっかけで青木先生の存在をしり、Webマーケティングのスクールに飛び込み、今現在過去一番と言っていいくらい頑張っています。

なぜそんなに必死に頑張っているのか
このプロフィール記事で私という人物を知ってもらえたらと思います。

幼少期 〜 中学時代

お母さんにべったりの幼少期

私は手のかかる子供でした。
母にべったくっついて母の手を焼かせていた子でした。

父は地方競馬の調教師。
13歳までは厩舎の中で育ちました。

母の性格は完璧主義で、表には出さないけれど他人や周りにどこか期待しているような人でした。
精神的にもそんなに強くない母は、家事に馬の世話の手伝いと経理の仕事、育児を全部一人でこなしていました。

割とストレスとためやすく、家のことは一切手伝わない父とはよく喧嘩をしていました。

先程も書いたように私の幼い頃は、内気で人見知りでいつも母の後ろに隠れているような子でした。

食べ物の好き嫌いが多く偏食持ちで、給食を食べるのが嫌でわざと吐いたこともあるくらい、嫌なことがあると、とことん泣きわめいて主張するような、本当に手のかかる娘でした。

普段は飛んでいる蝶をずっと目で追いかけているような、ぽや〜とした女の子でした。
なので母の苦労など知らず母にべったりしていました。

周りについていけなかった小学時代

小学生になった時、自発的に動くことがない私は野に放たれた気分でした。

私は先生の言っていることが理解できない子で、授業ではいまどこの勉強をやっているのかわからず勉強迷子になっているような児童でした。

授業中の集中力はなかったですが、漫画など読んでいる時は過集中になるほど没頭して読んでいました。

授業についていけないことから、勉強は嫌いで宿題忘れなどしょっちゅうありました。

集中力なくソワソワすることも多く、よく「落ち着きがない」と怒られていました。

知能テストでも結果が悪かったようなので、発達障害のグレーなところだったんだと思います。

大勢で一斉に受けるの授業は今でも苦手です。

変わった子はいじめられる
小学校4年の時いじめにあってました。
毎朝学校が始まるとお腹が痛くなり休み、夜になると痛くなくなるという症状が1週間ほど続きました。

腹痛の原因はいじめによるストレス

ストレスを溜めると身体に異常がでる。
体と心は繋がっているんということを知りました。

できないことが多くてよく怒られていた私はいつも自分を責めていました。

黒歴史の中学時代

中学時代が人生で一番嫌いな時期でした。

コミュニケーション下手で見た目が暗い。
友達も陰キャな友達が数人いた程度でした。
クラスメイトからも距離をとられ、ネタにされたり、陰口の対象キャラになっていました。

勉強では成績が悪く、テストの結果が出る度に毎回1時間以上母に怒鳴られていました。

余計に勉強に苦手意識を持ち、この頃には勉強のやり方がわからない人になっていました。
よく勉強できない人が言う「わかんないところが、分からない」という状態。

一応テストの前は勉強に取り組むも散々な結果でした。

この頃楽しかったことは、漫画を読むこと、アニメを見ること、ゲームをすること。
かなりのオタクでした。

中学3年になり進路を決める年になりました。

学力が足らず、私立の高校に入学することになりました。
推薦入試のため簡単な面接程度で誰でも受かるような女子校でした。

ここまでの私

この頃まではよく怒られていた為、自己肯定感低く、消極的で自発的に行動することがなかったです。

高校生〜専門学生

自分改革した高校時代

晴れて高校生。

中学が嫌すぎて卒業式の時、思わず笑みが溢れるほど卒業が嬉しかったです。

高校生になってから心機一転し、明るく振る舞うようにしました。
中学で同じクラスだった同級生がいなかったので、心機一転にはもってこいの環境でした。

友達もでき、底辺高校では成績も上の方、女子校なので男子がいないことにより飾らない女子たち。
飾らない女子たちとの交流は楽しく、いつも笑っていられるほど毎日充実していました。

人は変われるのだと、自分が変わったことによって学びました。
この時はじめて自分から変わっていこうと行動した時でした。

高校時代はアルバイトをして、自分で欲しい物を買うようになりました。
コンタクトレンズも自分で買いにいき、見た目も気を使うようになりました。
その頃流行っていたポケベルも自分で勝手に契約して自腹で支払っていました。

アルバイトの収入は月に2万あったか無かったか程度なので、
給料が入ったら全部使ってしまい貯めることはしていませんでした。

お金に関しては親はしっかりしていましたが、私は真逆で有り金は全部使う、お金のありがたみを知らない人間でした。

私は商業科にいました。
商業科ではパソコンを触る情報処理の授業があり、ワープロ、表計算、簡単なプログラミングを習いました。

私はこの授業が大好きで、夢中で頑張っていました。

母にねだって、当時高かったパソコンを購入してもらって勉強していました。
情報処理検定で1級を取れた時はめちゃくちゃ自分が誇らしかったです。
この時のおかげで今があるのかなと思います。

ただ親にたくさんお金を使わせていることに関して、後のち母からよく指摘されるようになりました。

この頃までの私への課金

小学校のころから視力が下がりメガネ(当時の眼鏡は高価だった)
エレクトーン
歯並びが悪かったので歯列矯正に100万円。
高校は私立高校。
高価なパソコン。

文句言われながらも与てもらえる有り難い環境でした。
いつか親に返してあげたいなという思いは持っていました。

親に無駄なお金を使わせた専門時代

この時代が一番もったいないと思える時代で今でもこの選択をしたことを後悔しています。

私が高校を卒業するころには就職氷河期が訪れていました。
進路などなにも考えていなかったのですが、母は進学を進めます。

高校受験の時も、なにか資格を取ったほうがいいからと商業科を選んだのは母でした。

色々考えてくれて、「歯科衛生士になったら?」と私に進めてきましたが、
遅がけの反抗期の私は母の提案には目もくれず、「面白そう」なだけの理由で
よくわからない生物系の専門学校に行くことを決めました。

当然専門的な授業が分からず、友達と遊び呆け、バイトに明け暮れ、資格を受験するも1つも取れずなんの成果もだせないまま卒業しました。

この頃、もっと自分の為になることを学んでいればという思いと、無駄に学費を支払わせたことで本当に申し訳無さと後悔しかないです。

20代

社会の厳しさから逃げたフリーター

専門学校を卒業前に慌てて就職活動をし、
地元の中小企業に事務員として入社しました。

今思えば普通にしっかりした良い会社だったと思います。

根性のないペラペラな人間の私は、就業時間外の集まりが多いこの会社に不満を持ち2ヶ月で退職しました。

その後半年ほどフリーターになり、再度事務員として別の会社に就職。
パワハラセクハラが酷い社長に耐えきれなく半年も経たずに退職。

またフリーターに戻り、パチンコ屋の店員として働いていました。
当時の時給は1500円もらっていて、賄い付き、クリーニング付き、
普通に働けば月20万以上は手に入り、かつ実家暮らし。

スタッフの人数が多い職場なので人間関係は色々ありましたが、業務内容的にもルーティンな作業。
体力はめちゃくちゃ使うけどあまり頭を使わなくてもできる仕事で環境に満足していました。

実家暮らしの為、親に少しはお金を入れていたような気がしますが、親の車を借りては壊していたので、修理代を返している感じでした。
(たぶん全然足りていない)

結構好き勝手にやっていたので、20歳過ぎてもよく親に怒られていました。

とんとん拍子に進んだ結婚・出産

23歳で結婚をして25歳手前で出産。

煩い親元から離れ普通に幸せに暮らしていました。

夫も夫の両親も優しい人でした。

27歳でマイホームを建て35年の住宅ローン。

奮発して建てた家は、想像以上に高価な買い物でした。
返済額は計算的に私がずっと働いていないと返せない金額でした。

当時20代の私はなんとかなるだろうと楽観的でいました。
結婚式も家をたてる頭金もお互いの親に援助してもらい親のスネをかじり続けていました。

20代は本当に何も考えず自由に過ごしていました。

30代

癌が見つかりどん底へ

31歳で2人目を出産し、娘が1歳になる頃、子供は夫に預け夜中アルバイトをするようになりました。夜はバイト、昼は幼い子供の育児。

自分でやりだした仕事だけど、寝不足が過ぎて体調を崩しました。

34歳になったとき、あまりに生理痛が酷かった私は婦人科に相談しに行きました。
その時に子宮頸がんが見つかりました。

がん細胞には種類があり、その中でも稀ながん細胞で予後が悪く広がりが速い、遠隔転移をするというがん細胞でした。
稀ながん細胞ということで、現段階で一番無難な治療法を進められ、本人が迷う暇も拒否する間も無く手術が決まりました。

手術は子宮、卵巣、鼠径部リンパを摘出するという手術…
この年で子宮と卵巣をとったら女として見た目が一気に変わってしまうのでは…

まさかのことで、信じられなくすべてのことがひっくり返った感覚でした。

稀ながん、生存率、予後…調べれば調べるほど不安は募っていくばかりでした。

そんなことを思っているうちに、あっと言う間に手術の日がきて、抗がん剤治療をし髪の毛は抜け、半年間ウィッグを付けた生活をしました。

手術後はめちゃくちゃ体力が落ち、ホルモンバランスも崩れ更年期障害の症状に悩まされました。

同じがん細胞の人のブログをみては、10年後の今自分は生きているのだろうかと考え、明るい未来なんて考えれませんでした。

母に心配で泣かれた時は、ほんとに親不孝な娘だと思いとても辛かったです。

その時から、自分と同じように辛い思いをしている人の役に立つことはできないだろうかと考えるようになりました。

手術から1年も経たない頃、どん底まで落ちていた私でしたが、家族や友人に支えられ、切り替えの早い性格のおかげもありすっかり前向きに生きていました。

その後は、体調のことを考え昼間働く事務の仕事を探しました。

事務の仕事を見つけるために、何年かぶりに簿記の勉強をし、高校生ばかりの試験会場で日商簿記の3級の試験を受け合格しました。

ですが事務職パートは競争率が高く、資格も簿記3級程度で事務経験がないに等しく30代なかばの私では、なかなか仕事が見つからず途方に暮れていました。

そこに知人から、短期で募集していた行政機関での事務補佐のお仕事を紹介されそこで働くことになりました。

年を取れば取るほど仕事を見つけるのは困難なんだよね…

人生を変えようと思ったきっかけ

事務補佐の仕事はコピー取りやファイリングと指示されてやる簡単な仕事。

手術をしてからホルモンバランスを崩した私は自律神経が乱れやすくなって
考えがまとまらなく頭にモヤがかかるときがよくありました。
なので複数の書類を扱う時、混乱してもの凄く段取りが悪くなりモタモタする時が多々ありました。

対して職員さんたちはお勉強ができて仕事もできる頭のいい人たちばかり

今まで関わって来た人たちとは全く違う人種といってもいいくらい、理性的に考え生きている人たち

この人たちの土台には、辛い受験を必死に勉強して勝ち抜いてきた努力と根性がある

私にはそれが無い…

その職場で私はある男の子に出会いました。

新卒で入った隣の席の男の子。
もう就職をしているにも関わらず、難しいの資格を取るために猛勉強をしてました。
しっかり仕事はこなしながら、朝も昼も晩も休みの日は10時間勉強をしているといいます。

メンタルはボロボロになりながらも、夢を追いかけ勉強をしてました。
「やりたいことがありすぎて1日24時間じゃ足りない、もっと階段を駆け上がりたい。」と彼は夢を語ってくれました。

そんなキラキラしている彼に羨ましさを感じ、
中途半端な自分により一層劣等感を抱くようになりました。

「私もこの子のように夢がほしい」

「私になにができるんだろう」

そのとき見つけたのがWEBデザインでした。

学びの中での変化

WEBデザインを学ぼうと思ったきっかけはPCを触って楽しかった高校のときの経験が決め手でした。

私は高いお金を出してスクールに通いました。

『WEBデザイナーになる!』と夢を持ってスクールに通ったのですが、

  • 週1のスクールではなかなか身にならない
  • 仕事、家事に追われ、疲れて果てて勉強が手につけれない

家族に協力を求めるもまだ娘たちも手のかかる頃
うまいこと回らない…

なかなか勉強も進まず、半泣きになりながら過ごしているところに事務補佐のパートの契約満了

どうしてもWEBデザインをやりたいと職業訓練に行き学びなおしました。
毎日のお勉強のおかげでWEB制作ができるようになったのですが、卒業訓練程度ではWEBの世界では就職困難。。

お家の方でも『自立』を目標に、ひとまず稼げるところへ就職することにしました。

40代

フリーランスで働きたい!

稼げる仕事をと人生で3回目の約20年ぶりの就職活動。
人材派遣会社の内勤。人材コーディネーターのアシスタント業務に申し込みました。

1次面接をクリアして、はじめての2次面接を受け、奇跡的に採用されました。
いままで1回の面接で採用ばかりのとこに行っていたので、2次面接はかなりの壁に感じました。40代にして新たな経験をしました。笑

本業で稼いで副業でWeb制作をしていき、ゆくゆくはフリーランスで働きたい!

そう思い一旦就職したのですが、現実は甘くはなく毎日ハードでWebのことが全く手につかなかったです。会社員という働き方も性にあわず益々フリーランスへの願望が強まりました。
どうしてもWebで働く夢が捨てきれず、お金のことは後回しにしWebデザイン関係の仕事を探しました。

運よく「職業訓練上がりでもOK」のWEB保守のコーダーの仕事が見つかりました。

その頃コロナ禍でお家時間は意識高い系のyoutubeを見るようになりました。
『ルーティン動画』や『勉強動画』など
意識高い人たちに感化され、食べ物など生活習慣を整えることを始めたおかげか、昔より体調が良くなり頭がモヤつくことも少なくなりました。

Webの仕事は人間関係も環境も良く、スキルも付き楽しかったですが、私レベルのスキルではお給料は低く、独立も自立も難しい。

自主的に家でプログラミングの勉強をするも、体力も精神力もなくうまく行かず。

そしてSNSで同じ勉強仲間をフォローをしていたのですが、士気が高まるどころか勢いに圧倒され病んでいく。

若い人と40歳の私とでは学習の吸収スピードがぜんぜん違う…ますます自信なんてつかないまま時が流れていく。

Webの世界は流れが早い…
このままではあっという間に年をとってしまう…と焦る。

今の私ではWebデザイン1本では無理だ…やっていけない。
とお給料はアップのため仕事を変えました💦

オンラインサロン入会

ひとまず『自立』。これを目標にしていました。

Webの仕事をやめ、派遣でデジタル支援員の仕事をしました。
この仕事は小学校に行き、先生のデジタルのお困りごとの相談にのったり、先生のお手伝いをしたりと、やりがいがある仕事でした。そして今までの知識も役に立っていました。

教育に関わるのも、ネットワークやPCの知識が増えていくのも楽しかったです。

ですが3ヶ月〜半年に1回は事業入札で派遣先の会社が変わるという先が見えづらい仕事でした。

縁あってIT系の業務委託で働くことになりました。
このタイミングで個人でやっていこうと決めました。
ありがたいことにWebサイト制作のお仕事もいただけるようになりました。

ですが、私の今の目標は

  • 時間と場所が融通のきく働きかたをすること
  • 収入を増やすこと
  • 自分の強みをもっとつけること

です。

悩んでいたそんな時、LINEが「ぴこんっ」となりました。
見るとメルマガに登録していた憧れの女社長『勝友美』さんが運営するオンラインサロンの募集最終日の案内。

この勝さんは、考えを的確に言語化し迷いがなく力強く発信する美人で素敵な方。

オンラインサロンの存在は知っていましたが、前回の募集のときは迷っていたら募集は終了していました。今回は『気がついた時がタイミングだ!』とすぐ入会。

数日後、ライブ配信の案内が届き、始めてのオンラインサロンのライブ配信にワクワクしながら視聴しました。

Webマーケティングに惹かれ

その日のライブ配信は、オンラインサロンでWEBマーケティングのことを発信している方の配信。あれ?勝さんは?と思いながらも、その方の配信に引き込まれ、食いつくようにみていました。

内容は

WEBマーケティングのスクール生募集の案内

どうしてもWEBへの思いは消えない私。
なぜならこの時代なんでもWEBが必要となっているから。

WEBマーケティングはこの時代生きていくのに最強のツールだと直感的に理解しました。
「WEBマーケティングをこの1年真剣に学ぶと人生が変わる。なぜならば… …」
ときちんと道筋を丁寧に提示してくれる先生の安心感。

この人から学ぼう!
今このタイミングでこれを見れたのはきっと、人生変えるためのチャンスなんだ

と迷わずスクールに申し込みました。

なぜ人生変わると思ったか
  • 過去自分ができなかった価値あるものや、自分の思考の発信を出来るようになる
  • 経験から学んだこと人に『わかりやすく価値提供』できるようになれる

 

収入 = 自信 

収入を得て大切な人たちを養っていける自分で在りたい
大切な人たちが困っている時に力になれる自分で在りたい

理想の未来を現実にする為にWEBマーケティングをこの1年真剣に学びます。

このブログを読んだ人たちの未来を変えるきっかけになれるように、情報発信をがんばります!

最後まで読んでいただきありがとうございました。